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2024年12月04日 Zenoaq Story

【History】創業者 福井貞一が辿った薬人生と、誠実な生き方の重み(前編)|Zenoaq Story

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写真:創業者 福井貞一の学生時

ZENOAQ Story(ゼノアック ストーリー)では、月に1回オリジナルの読み物記事を配信し、弊社に関わる動物やヒトなどのストーリーをお伝えします。

ありがとうございます。  

今回は、創業に関するストーリーをご紹介することで、ゼノアックがどのような歴史や背景を持った会社かをお伝えできればと思います。

ゼノアックは現在の社長福井寿一(としかず)の祖父、福井貞一(さだかず)により創業されました。創業から78年目を数えますが、それは平坦な道のりではありませんでした。

福井貞一(以下、社主)は、1917年に奈良県の薬屋の四男として生まれました。薬屋、といっても現在でいうドラッグストアではなく、配置売薬業と呼ばれる販売を行っていました。お客様の家に薬を預けておき、薬を使った分だけ再巡回のときに代金をいただくという商法です。その商法は「越中富山の薬売り」でも有名ですが、奈良の「大和売薬」はさらに古いと言われています。

社主はその後も、進路を富山薬学専門学校(現・富山医科薬科大学)とし、卒業後は大阪の薬品会社に就職しました。生まれる前から薬の近くで育った社主は、まさしく「薬人生」を歩んだといえるでしょう。

間もなく日本は戦時体制となり、社主も兵役に就きました。幹部候補生となるため受験勉強に励み、夜間消灯後もトイレに隠れて勉強したことで試験に合格します。陸軍軍医学校で教育を受け、1940年に陸軍病院に配属となりました。薬剤将校として勤務し、行軍の教育係や、週番長などを担当しました。当時23歳だった社主の部下は、自分より年長者を含む300人以上で、自分は若くても教育係の立場。そこで人心掌握の肝をかつての上官の姿勢「内務は春風駘蕩(しゅうぷうたいとう)、外務は秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)」に求めました。  行軍指導のときは夜間にも訓練を実施する代わり、週番長のときは家族のいる兵隊に、軍規違反の外泊をこっそり認めました。  翌1941年には太平洋戦争に突入し、社主は野戦病院配属の内命を受けます。覚悟を決め奈良の両親に別れを告げますが、内命は撤回され郡山陸軍病院開設将校を命じられました。ここで初めて現本社のある福島県郡山市の地を踏むことになります。

郡山陸軍病院では人手が足りず、専門でない経理や運営上の実務までこなします。予算編成では予算枠を10倍近く上回る予算案を作成し、本部の係官を呆れさせてしまったこともありました。しかし、この経験はのちの企業経営の中で生かされる貴重なものとなりました。

1942年に社主は生涯の伴侶となる澄子と結婚し、2年後には長男邦顕(現ゼノアックホールディングス社長)が誕生します。喜びにひたるのもつかの間、日本の戦局は悪化し、郡山も戦火に包まれていきます。しかし、社主が事前に薬品を分散して配置しておいたことで、空襲時にはこれらの薬品が最大限に生かされました。 

1945年に終戦となり、兵役を終えた社主が次なる仕事を決めかねていたとき、郡山の地元有力者が資金を出し合ってヒト用の薬品製造会社を立ち上げる話が持ち掛けられました。社会的ニーズとも合致していたため、社主は事業参加を決意します。不眠不休で会社づくりに取り組みますが、翌年に金融緊急措置令が公布されてしまいます。爆発的なインフレを凍結するため、預金封鎖と新円切り替えが断行され、資金を拠出できない発起人が出たことで解散を余儀なくされました。

家財道具も準備資金に消え、食卓はわびしいものとなり、家族の生活が犠牲となった社主のもとに残ったものは、自身の名前で提出された製造許可申請書でした。これを生かせば会社設立は可能と考え直した社主は、兄から支援を受け、新会社設立の準備に入りました。工場と本社社屋を確保し、1946年3月に「旭日薬品工業株式会社」  を創立しました。日本全薬工業の前身となるこの会社は、ヒト用の薬品製造会社でした。郡山陸軍病院で一緒に働いた戦友3人を雇用し、29歳で経営者としてのスタートを切ります。

このように激動の社会の中で、弊社は産声を上げました。ここから現在まで会社が存続するためには、多くの試練を乗り越える必要がありました。創業直後に起きた様々な試練については、また次回ご紹介いたします。

ありがとうございました。

※福島民友新聞 連載「私の半生」(1989年)より